知られざるエマヌエル・バッハ (C. P. E. バッハ) を紹介するサイトです.
1.宮廷楽団への招聘
フリードリヒ 2 世が王太子時代にエマヌエル・バッハを招聘したことで,バッハは 1738 年から 28 年間プロイセン宮廷に仕えることとなりました.彼はフリードリヒの宮廷楽団の鍵盤楽器奏者として活躍し,フリードリヒ自身が作曲したフルートソナタや協奏曲の伴奏を務めました.
2.フリードリヒの音楽的嗜好
フリードリヒ 2 世は,特にフルート演奏を愛し,その技術を磨くためにクヴァンツ (Johann Joachim Quantz) に師事していました.彼の音楽的嗜好は,ギャラント様式や多感様式に傾いており,エマヌエル・バッハの作風にも影響を与えました.
3.宮廷での役割
エマヌエル・バッハは宮廷楽団での演奏だけでなく,フリードリヒのフルート演奏を支え,彼が求める洗練された音楽を提供しました.また,バッハは鍵盤楽器のソロ演奏や即興演奏でも高い評価を受けました.
4.『音楽の捧げもの』
1747 年にフリードリヒが父ヨハン・ゼバスチャン・バッハを宮廷に招待した際,エマヌエルは通奏低音を担当しました.このときのフリードリヒの提示した主題に基づいて作曲されたのが,J. S. バッハの**『音楽の捧げもの』(Musikalisches Opfer)** です.エマヌエルもこの歴史的な場に参加していました.
5.晩年の関係
エマヌエル・バッハはフリードリヒ大王の反対を押し切って
1768 年にハンブルクへ移り,フリードリヒ 2 世との直接的な関係は薄れましたが,彼の宮廷時代に培われた作曲技術や演奏技術はその後の活動に大きな影響を与えました.
フリードリヒ 2 世の宮廷での活動は,エマヌエル・バッハの音楽家としての成長に重要な役割を果たしました.彼の宮廷での経験は,多感様式の深化や鍵盤楽器作品の発展に寄与し,後世の作曲家たちへの影響も広がっています.この関係は,18 世紀中期の音楽文化の象徴とも言えます.
[追記] 18 世紀なかばにはまだフォルテピアノは一般に普及しておらず,宮廷のフォルテピアノがつかえたことはエマヌエル・バッハにとって,宮廷ではたらくおおきな利点だったとかんがえられます.
1738年,エマヌエル・バッハがベルリンに来て当時皇太子であったフリードリヒ2世の楽団に加わったとき,皇太子は既に音楽機関を構築し始めていました.これは彼の父であるフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の不興を買っていたにもかかわらずです.フリードリヒ1世が設立した音楽隊をほぼ解体してしまった父親とは異なり,フリードリヒ2世は音楽の重要性を認識していました.
1740年に王位に即位すると,ベルリン歌劇場の設立とともに雇用される音楽家の数は1736年時点の17人から1740年代初頭には35人に増加しました.
フリードリヒの最も信頼を寄せた音楽家はヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ(1697–1773)とカール・ハインリヒ・グラウン(1704頃–1759)で,いずれもその生涯で広く名声を得ました.